長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産-2
野崎島の集落跡




野崎島には旧石器時代から戦国時代の遺跡が発見され太古より人が暮らしていたことが分かっています。
1,800年頃、五島列島一円から崇敬を集めていた沖ノ神嶋神社の神官の居住地のほかは未開地となっていた野崎島に潜伏キリシタンたちが逃れてきました。
彼らは島の中央部2か所へ集落をつくり、神社の氏子となり神道への信仰を装い、密かに潜伏キリシタンとして信仰を続けていました。
戸主である男性たちは氏子としての役職を務める必要があったため、女性たちが潜伏キリシタンの信仰の指導者となりました。
信仰の自由が認められた後にはカトリックへと復帰し、2つの集落にはそれぞれ教会が建てられました。
頭ヶ島の集落(かしらがしまのしゅうらく)




縄文時代や弥生時代の遺跡があることから古代には人が住んでいましたが、頭ケ島は永らく(江戸時代後期まで)人々が集落を作り定住したことがない無人島でした。
島は疱瘡で亡くなった人々を埋める場所として使用されていました。
1,858年に前田義太夫という人物が代官の許可を得て島に移り住み開墾を始めました。彼は人々に島への移住を進めましたが、当初は移住を希望する者はありませんでした。
その後、義太夫の熱意に応じて最初の移住者となったのが、当時禁制であったキリシタンの一家でした。
以降、キリシタン信者の移住者が増えてゆき密かに信仰を続け、明治時代の大規模なキリシタン弾圧時に拷問をうけても信仰を捨てず、解禁後にはカトリックへ復帰した信徒たちの手によって木像教会が建てられ、大正時代には石造りに建て替えられました。
久賀島の集落




1,566年、ルイス・デ・アルメイダの布教によって久賀島にキリシタンが急増しました。
江戸時代にキリスト教禁教令が出されると、キリスト教は一時途絶えましたが、1,797年以降、大村藩の西彼杵半島の外海などからの移住が始まると多くの隠れキリシタンが来島し入植しました。
1,868年、久賀島の隠れキリシタンが大浦大聖堂へ赴き、宣教師から寺社の護符などは所持してはならない。と諭され、護符を焼き、寺社との係りを断ち、キリシタンであることを庄屋を通じて代官へ上奏しました。
この結果、大弾圧【五島崩れ】が始まりました。翌年、英国公使・ハリー・パークスが明治政府に抗議したことによって、キリシタンたちは釈放されカトリックに復帰しました。
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)<なるしまのえがみしゅうらく えがみてんしゅどうとそのしゅうへん>




江上集落は潜伏キリシタンが切り開いた集落です。
領内の潜伏キリシタンを厄介払いしたい大村藩と、開墾の人手が欲しかった福江藩の思惑が一致したことで、1,797年に4家族が外海より移住してきたことから始まります。
彼らは移住先の社会、宗教と共生しつつ自らの信仰を継続しました。先住者の集落からは離れた海辺の谷間に集落をつくり、猫の額ほどの農地、水田と漁業で生計をたてました。
キリスト教解禁後も五島崩れの記憶によって4家族は信仰を隠していましたが、1,881年(明治14年)フランス人司祭オーギュスト・ブレルによって4家族全員が洗礼を受けカトリックに復帰しました。
復帰後には在来技術を用いて木造の教会堂を建造されました。
大浦天主堂

長崎県長崎市にあるカトリックの教会堂で、日本に現存するキリスト教建築物では最古のもです。
正式名は日本二十六聖殉教者聖堂といい、その名の通り日本二十六聖人に捧げられた教会堂であり、殉教地の長崎市西坂に向けて建てられています。
世界遺産登録
長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 は
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
上記の基準を満たしているとして、2018年にユネスコ世界遺産へと登録されました。
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