長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産-1

【大浦天主堂】画像引用元:PhotoAC

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産は、江戸時代250年の禁教令の下で、長崎と天草地方の潜伏キリシタンの人々が、宣教師不在の中、一般社会や宗教と共生しつつ信者のみで信仰を守り通し、共同体を存続させるための生き方、暮らし方を創造したことが評価され、長崎県、熊本県に残る12の資産から構成されています。

原城跡

【原城跡】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権者:Chris 73

島原半島南部に位置する原城は、禁教時代初期に有馬領のキリシタンが蜂起した【島原・天草の一揆】通称・島原の乱の主戦場となった場所です。

一揆は全国的な禁教政策と、島原藩主による苛政、キリシタン弾圧によって引き起こされました。

原城は竣工時にキリスト教による祝別を受けており、軍事的にも宗教的にも、キリシタンが籠城するのに最適な城でした。

小西家家臣の子孫と言われる天草四郎を総大将に戴いた一揆は江戸幕府に大きな衝撃を与え、幕府によって宣教師が乗っている恐れのあるポルトガル船の来航を禁止される事態、2世紀を超える鎖国政策の契機となり、宣教師不在の中、潜伏キリシタンたちが信仰を密かに継続してゆく契機となりました。

平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳,中江ノ島)

【春日集落の棚田】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ表示-継承4.0インターナショナル 著作者:Indiana jo
【安満岳】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権者:福本 大輔
【中江ノ島】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承4.0インターナショナル 著作者:Indiana jo

平戸の聖地と集落は、潜伏キリシタンが安満岳(やすまんだけ)の山頂にある石塔と自然石による石祠を「安満岳の奥の院様」として信仰の対象として崇敬し、キリシタン殉教の中江ノ島(なかえのしま)を聖地とし、密かに信仰を継続した潜伏キリシタンの集落が春日集落です。

春日集落では、丸尾山や安満岳を遥拝の対象とし、オラショ(日本のキリシタン用語で祈りを意味します。ラテン語のオラシオ<祈祷文>に由来します)を唱えるなど、本来のキリスト教の教義からは乖離しました。

明治6年(1,873年)に禁教が解かれても、カトリックに復帰せず、独自の信仰を続けたため教会堂は設立されていません。

天草の﨑津集落

【崎津集落】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承4.0インターナショナル 著作者:Ubuhouse

天草下島南部は室町時代より豪族の天草氏が領有していました。

1,569年、南蛮貿易目当てにルイス・デ・アルメイダ(ポルトガル商人。のちに神父、日本で医療活動・医学教育・布教活動を行い、日本初の病院を造った)を招き布教が行われました。

禁教時代になると、潜伏キリシタンたちは生業に根差した身近なものをキリシタンの信心具として代用することによって密かに信仰を継続しました。

大黒天や恵比寿神をキリスト教の唯一神デウスに見立てたり、アワビの貝殻の模様を聖母マリアに見立てるなど、漁村独特の信仰形態が育まれました。

禁教が解かれるとカトリックに復帰し、禁教期に密かに祈りそささげた神社に隣接して教会堂が建てられました。

外海の出津集落(そとめのしつしゅうらく)

【出津集落】画像引用元:PhotoAC

【出津教会堂】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権者:ぱちょぴ

禁教期には多くの外海地域出身の潜伏キリシタンが五島列島など島嶼部へと移住し、潜伏キリシタンの信仰の継続に関する伝統が離島の各地へと拡がりました。

一部のキリシタンは外海地域へと残り、教理書及び教会暦などを伝承して自らの信仰を継続しようとしました。

禁教が解かれると段階的にカトリックへと復帰し集落を望む高台に教会堂が造られました。

外海の大野集落(そとめのおおのしゅうらく)

【大野集落】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承4.0インターナショナル 著作者:Indiana jo
【大野教会堂】画像引用元:PhotoAC

大野集落の潜伏キリシタンは、信仰を装うために、キリシタンの庄屋が神社の神主を務め、村人たちは氏子として振る舞い、外見は神社を装いながらキリスト教寺院として機能させ続けました。

解禁後には集落に大野教会堂が建てられました。

黒島の集落

帰属:Copyright © 国土画像情報(カラー航空写真)に基づいて作成、国土交通省
【黒島天主堂】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承4.0インターナショナル 著作者:Marine-Blue

黒島は平戸藩によって軍馬の牧場として使われていました。

1,803年に牧場が廃止されると、幕府のキリスト教の禁教令と弾圧から逃れたキリシタンたちが移住してきて潜伏キリシタンの集落となりました。

潜伏キリシタンたちは、表向き所属していた仏教寺院で密かに「マリア観音」の像に祈りを捧げ、既存の仏教集落の非干渉にも助けられて、自らの信仰を継続しました。

禁教令が解かれるとカトリックへ復帰し、島の中心部へ教会堂を建てました。

長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産-2 へ続く


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です