富士山―信仰の対象と芸術の源泉-4

船津胎内樹型(ふなつたいないじゅけい)

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溶岩が樹木を取り込んで固化し、燃え尽きた樹木の幹の跡が空洞として残ったものを溶岩樹型といいます。

その中でも、内部の形態が、人間の内臓を刳り抜いた胎内に似たものが「御胎内」と呼ばれて信仰の対象となり、「胎内巡り」と称して洞内を巡る信仰行為が行われるようになりました。

船津胎内樹型は、後述する【吉田胎内樹型】と並んで、その代表的なものです。

その内部は船津胎内神社として一般公開されており、胎内には富士山の祭神である木花開耶姫が祀られています。

吉田胎内樹型

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承平7年(937年)の噴火によって形成されたとされています。

前述した船津胎内樹型と並んで、国の天然記念物ですが、こちらは船津胎内樹型とは違って原則非公開ですが、毎年4月29日の「吉田胎内祭」が行われる時のみ一般にも公開されています。

人穴富士講遺跡(ひとあなふじこういせき)

【富士浅間大神碑と人穴】画像は全世界においてパブリック・ドメイン 作者:Mocchy
【碑塔群の一部】画像引用元:wikimedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権者:Ennu人穴富士講遺跡はi

人穴富士講遺跡は、富士山の西麓に位置します。富士講の開祖とされる角行が修行し、浅間大菩薩による啓示を得、入滅した場と伝えられる風穴を【人穴】といい、人穴を中心として富士講信者が造立した約230基もの碑塔群が残されています。

歴史書【吾妻鏡】によれば、鎌倉2代将軍・源頼家(1182~1204年)の命を受けた武士が洞穴内を探検した際、霊的な体験をしたことが記されており、13世紀には人穴が「浅間大神の御在所」として神聖視されていたことが分かります。

一群の碑塔は富士講ごとにまとまった位置に建立されており、各講の勢威を示す意図がうかがえます。

現在、富士講の組織及び活動は衰退しており、1964年以降、新たな碑塔の建立はありません。

白糸ノ滝

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隣接する【音止の滝】と共に著名な観光地として知られており、日本の滝100選も選ばれており、日本三代名瀑に選ばれることもあります。

富士山の地下水を水源としており、古富士泥流層(約10万年前の富士山の火山活動のうち特に2 – 3万年前の噴出物が堆積した地層)の上に白糸溶岩流の層が重なり、各溶岩流の層の隙間から地下水が流れ出る様子が絹糸を垂らしたようであることから、【白糸ノ滝】と呼ばれています。

古来、風光明媚な景勝地として知られ、【信長公記】にも「西の山に白糸の滝名所あり」と記されています。

富士講信者の巡礼地のひとつでもあり、角行が水行を行ったといわれています。

三保松原(みほのまつばら)

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その美しさから日本新三景、並びに仁尾本三大松原のひとつとされ、国の名勝に指定されています。

天女と漁師の交流を描いた「羽衣伝説」の舞台として知られており、天女が羽衣を枝にかけたとされる【羽衣の松】の付近は、海浜の松原越しに富士山の形姿を望む風致景観の優秀な場所として知られています。

 日本最古の詩歌集である『万葉集』が8世紀に編纂されて以降、三保松原はや歌枕として数多の和歌の題材となりました。

更には、歌川広重(1797~1858)の六十余州名所図会や、イェーツ(1865~1939)及びパウンド(1885~1972)など西洋のモダニズムの作家の作品にも取り上げられ、日本の伝統芸能「能」が世界に広まる契機をもたらしました。

世界遺産登録

富士山―信仰の対象と芸術の源泉は、

(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。

(vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。

上記の基準を満たしているとして、2013年にユネスコ世界遺産へ登録されました。


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