富士山―信仰の対象と芸術の源泉ー2
冨士浅間神社(須走浅間神社)<ふじせんげんじんじゃ・ずばしりせんげんじんじゃ>


浅間神社の一社、富士山須走口登山道の起点に鎮座しています。
祭神は
・木花咲弥姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)
・大己貴命(オオナムチノミコト=オオクニヌシ)
・彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)
平安時代初頭の延暦21年(802年)、富士山東麓が噴火したため、須走に斎場を設け祭事を行い鎮火の祈願を行ないました。それにより同年四月初申の日に噴火が収まりました。そのため、大同2年(807年)、鎮火祭の跡地に報賽(ほうさい・祈願が成就したお礼に参拝すること)のため社殿を造営したと伝えられています。
河口浅間神社


富士山の北麓にて御坂山地を背負い、河口湖越しに富士山へ対峙して鎮座しています。
祭神は
・浅間大神
川口浅間神社では、木花咲弥姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)を指すとしています。
社記によれば、天津彦彦火瓊瓊杵尊(アマツヒコヒコホノニニギノミコト・木花咲弥姫命の夫神)と大山祇神(オオヤマツミノカミ・木花開耶姫命の父神)の両神を相殿に祀るとする伝えもあります。
貞観6年(864年)に始まった富士山の噴火を鎮めるために、翌年貞観7年に浅間神を奉斎(ほうさい・神仏を謹んで祀ること)したのが始まりとされています。
この噴火により大被害が発生し、本栖湖と剗の海(9世紀半ばまで存在した富士山麓の湖)が埋没したとされています。これが駿河国浅間明神(現・富士山本宮浅間大社)の祭祀怠慢とされ、このため甲斐国でも浅間大神を祀るべきとなりました。
冨士御室浅間神社(ふじおむろせんげんじんじゃ)

浅間神社の一社、富士山中で最古の神社とされています。
境内は奥宮(本宮跡地)と里宮から成っており、かつて本宮のあった地、現在は奥宮が置かれている山宮は吉田口登山道の二合目に鎮座します。里宮は川口湖畔の勝山に鎮座します。
文武天皇(第42代天皇・683~707年)の3年、藤原義忠によって創建されたと伝えられており、社名の「御室」は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことに由来します。
天徳2年(958年)には村上天皇(第62代天皇・926年~967年)により、氏子の祭祀の利便のために河口湖南岸に里宮が創建されました。
中世には修験道、近世には冨士講(江戸時代に成立した民衆信仰)と結びついて発展し、戦国時代には甲斐武田氏の崇敬を受けました。
御師住宅(旧外川家住宅)


御師住宅(小佐野家住宅)
小佐野家住宅(リンク先GoogleMap)
御師(おし)とは、参詣客のために祈祷・案内をし、参拝・宿泊の世話をする神職のことを言います。
御師住宅は単なる住宅ではなく、宿坊・御神前を備えており、参拝客に宿を提供し、登山の世話を行い、御神前にて祈祷を行い、参拝客と神仏の仲立ちを行っていました。
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