紀伊山地の霊場と参詣道-4
慈尊院


和歌山県伊都郡九度山村慈尊院にある高野山真言宗の寺院です。山号は万年山、本尊は弥勒仏(慈尊)です。高野山の政所として創建されました。
空海の母・玉依御前は高齢になると、息子の空海が開いた高野山を一目見ようと、この地へやって来ました。しかし、当時の高野山は七里四方が女人禁制であったため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒仏を篤く信仰していました。
空海はひと月に9度(かならず9度というわけではなく、それだけ頻繁に訪れたという例え)20数kmに及ぶ山道を歩いて母を訪ねたことから、この辺りを九度山と呼ぶようになりました。
玉依御前は835年に死去しましたが、その時、空海は弥勒仏の夢を見たため廟堂を建立し自作の弥勒仏像と母・玉依御前の霊を祀ったといいます。
弥勒仏の別名を慈尊ともいうため、この政所は慈尊院と呼ばれるようになりました。
丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)



丹生官省符神社は、和歌山県伊都郡九度山村慈尊院にある神社です。
空海は高野山の地主神狩場明神とその母、丹生都比売大神を高野山の入り口である当地へ祀りました。当社は高野山の領する官省符荘の鎮守とされています。
大峯奥駈道


吉野と熊野を結ぶ大峯山を縦走する修験道の修行の道です。
1000m~1900m級の険しい峰々を踏破する「奥駈」という峰入修行を行なう約80kmに渡る古道を指します。
熊野古道の中で最も険阻なルートであり、修験道の開祖とされる役小角が8世紀初頭に開いたとされています。
熊野参詣道中辺路

中辺路(なかへち)は熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道、熊野古道のひとつです。
およそ21里(84km)に及ぶ行程で、一般に観光スポットとして熊野古道といえばこの中辺路を指します。
熊野参詣道小辺路


小辺路(こへち)は、熊野三山への参詣道、熊野古道のひとつです。
高野山と熊野本宮大社を結び、紀伊山地を南北に縦走します。熊野古道の中で起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70km)で結び、大峯奥駈道に次ぐ険しいルートです。
熊野参詣道大辺路

大辺路(おおへち)は、熊野三山へと通じる参詣道、熊野古道のひとつです。
田辺から那智勝浦を結ぶ海辺の道です。他の参詣道と同じく、途中に厳しい峠道を含んでいて、富田坂(とんだざか)、仏坂、長井坂などが知られています。
大半は、市街地や国道に吸収されており、旧態を保っているのは、そのような厳しい峠道のような一部のみです。
熊野参詣道伊勢路


熊野古道である伊勢路は、伊勢国・伊勢神宮から熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へ通じる参詣道です。伊勢神宮から熊野本宮大社までの距離は約170kmに及びます。
古くより伊勢神宮と熊野三山を結ぶ交通路で、「東海道中膝栗毛」にも登場し、「伊勢へ七度、熊野へ三度」と呼ばれる信仰の道でした。
高野参詣道



高野参詣道は、弘法大使・空海が開山した真言密教の聖地・高野山へ徒歩で参拝するための参詣道です。
高野七口と呼ばれる7つの主たる参詣道があり、それ以外にも高野七口へと繋がる参詣道があります。
高野山とは標高約900mの山上にありますが、高野山という山があるわけではありません。標高1000m級の山々に囲まれた盆地状の山域の総称を高野山といいます。
高野山の地形は、周囲の山々「外輪山」を古来「外八葉」と呼び、蓮華の花びらを象徴しています。
また、内輪山を「内八葉」と呼び、外八葉と合わせて十六葉の山々を金剛界曼荼羅の十六大菩薩に相当させ、蓮の花を象徴する曼荼羅の中心に高野山があるとされています。
高野山の子院数は最盛期には1865院にも及び、江戸時代には幕府によって大幅に減らされますが、それでも812院あったと記録に残っており、現在でも117か寺が立ち並ぶ一大宗教都市であり、かつての高野参詣道は多くの参拝客で賑わっていました。
世界遺産登録
紀伊山地の霊場と参詣道 は
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
(vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。
上記の基準を満たしているとして、2004年7月(資産範囲の軽微な変更2016年)にユネスコ世界遺産へ登録されました。
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