琉球王国のグスク及び関連遺産群-1
琉球は日本列島の南端に位置する列島です。
14世紀中頃は三つの王国が分立し、15世紀になり統一され琉球王国となりました。
日本をはじめ、中国、朝鮮、東南アジアとの広域交易を通じ、独特の文化を形成しました。その特色がよく表れているのがグスク(城)です。
今帰仁城、座喜味城、勝連城、中城城といった構成資産は三国鼎立時代から琉球王国成立期にかけて築かれたものであり、首里城は琉球王が住み、王国を統治するために築いたものです。
その他の構成資産である、園比屋武御嶽石門、玉陵、識名園、斎場御嶽からも琉球独特の王国文化を感じることができます。
首里城跡

琉球王国中山首里(現在の沖縄県那覇市)にある。琉球王朝の王城でした。
2019年に火災によって主要7棟が消失し、2026年の完成を目指して現在も復興作業が続いています。
首里城は琉球王朝の王城として用いられ、首里は王朝の首府として栄えました。
史書に記録されている限りでも、数度は焼失されていて、その度に再建されてきました。
首里城は日本の他地域(本州)の城とは異なり、中国の城の影響を大きく受けており、門をはじめ各種の建物は朱色に塗られ、装飾には王朝の象徴である龍が多用されています。
今帰仁城跡


読みは(なきじんグスク)、(なきじんじょう)、沖縄県国頭郡今帰仁村にある城跡です。
琉球王国成立前の三国鼎立時代の北山の国王、北山王の居城でした。
今帰仁城跡からは中国や東南アジアの陶磁器が数多く出土しており、当時の繁栄ぶりがうかがえます。
尚巴志(第一尚氏王統の第2代国王)によって北山国が滅ぼされた後も、北山統治の要所として引き続き使用されました。
座喜味城跡


読みは(ざきみグスク)、(ざきみじょう)。沖縄県中頭郡読谷村にある城跡です。
日本軍が高射砲陣地、アメリカ軍がミサイル通信基地を構築していました。
そのため大戦中に壊滅的な被害を受け、返還されるまでは瓦礫の丘陵となっていました。
返還後には調査と復旧が進められ、現在では美しいグスクとして蘇っています。
1416年から1422年に護佐丸(争いから逃れて来た今帰仁王子の三世の次男)が築城したといわれています。
1430年に中城城に移封されるまで護佐丸が城主でした。
出土品には16世紀のものも見られるため、少なくともその頃までは利用されていたと推察されています。
勝連城跡


読みは(かつれんグスク)、(かつれんじょう)。沖縄県うるま市にある城跡。阿麻和利(琉球王国で勝連半島を勢力下に置いていた按司(地方貴族))の城として知られています。
14世紀初頭に英祖王統の2代・大成の五男、勝連按司によって築城されたと考えられていますが、一方で12世紀から13世紀には築城が始まっていたとする説もあります。
城内からは元時代の中国の陶器が出土しており、さらに「おもろさうし」(琉球王国の詩集)に「勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとし」とあり当時の繁栄を知ることができます。
中城城跡


読みは(なかグスクじょう)。沖縄県中頭郡北中城村・中城村にある城跡。
15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸(上記・座喜味城の築城者)の城として知られています。
中城城は当時の貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵の上にあり、丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られています。
14世紀後半頃までに、南の廓・西の廓・一の廓・二の廓の主要部分が築かれ、その後1440年に移封されてきた護佐丸によって三の廓・北の廓が整備され、現在の形になったと考えられています。
日本に開国を迫ったペリー提督はこの地を訪れ、中城城を見てその建築土木技術の高さに驚嘆し、本国へ詳細な報告書を送っています。
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