8:厳島神社

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広島県廿日市市の厳島にある神社であり、全国に約500社ある厳島神社の総本社です。

厳島は「安芸の宮島」とも呼ばれ日本三景の一つに数えられます。

平家との縁深く、平清盛によって現在の海上に立つ大規模な社殿が整えられました。

境内-遠景

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歴史

社伝では、推古天皇の元年(593年)にこの地方の有力な豪族、佐伯鞍職が神託を受け、勅許を得て御笠浜に市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)を祀る社殿を創建したのが始まりとされています。

イツクシマという名もイチキシマが転じたものとする説があります。

平安時代末期、神主・佐伯景弘と当時の安芸守・平清盛の結びつきを契機に平家一族から崇敬を受けました。

仁安3年(1168年)頃、清盛が社殿を造営し、現在と同程度の大規模な社殿が整えられました。

平家一門の隆盛と共に厳島神社も栄え、平家の氏神となりました。

平家の滅亡後も源氏をはじめ時の権力者たちから崇敬を受けましたが、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)の2度の火災によって建物の全てを焼失しました。

現在残る社殿は仁治年間(1240~1243年)以降に造営されたものです。

戦国時代に入ると世の中が不安定になると徐々に衰退しましたが、毛利元就が厳島の戦いに勝利し、当地一帯うぃ支配下に置くと、毛利元就の崇敬を受け、再び栄えます。

豊臣秀吉も九州遠征の途上で厳島神社に参拝し、大経堂(現、千畳閣)を造営しました。

江戸時代には厳島詣が庶民の間に広まり、多くの参拝客で多いに賑わいました。

明治時代には神仏分離の原則によって社殿の焼却が命じられました、しかし厳島神社の棚守(宮司に相当)が明治政府へと直訴し焼却は免れました。

しかし、社殿の彩色は全て削ぎ落され「白木造り」へと改めさせられ、千木と鰹木が新設されるなどの【復古】を行わされました。

明治末に社殿が国宝に認定されたのを機に、破壊された部分が明治末の大修理と大正の修理によって復旧され、千木と鰹木も撤去されました。

本社拝殿-正面東側

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本社拝殿内部

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反橋

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世界遺産登録

(i)
人間の創造的才能を表す傑作である。


(ii)
建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。

(iv)
歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。

(vi)
顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。

上記の基準を満たしているとして、1996年にユネスコ世界遺産へと登録されました。


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