7:原爆ドーム



原爆ドーム(英語名:Atomic Bomb Dome)は、1,945年(昭和20年)8月6日
8時15分に、広島市へ投下された原子爆弾の悲惨さを今に伝える建造物(被爆建造物)です。
広島平和記念碑( Hiroshima Peace Memorial)とも呼ばれ、アメリカ合衆国の強い反対や、中華人民共和国の審議棄権といった事態もありましたが
備考を【負の遺産】とする文化遺産区分で、ユネスコ世界遺産へと登録されています。
被爆時の状況
昭和20年8月6日、8時15分17秒
アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」から建物の西隣りに位置する相性橋を目標に原子爆弾「リトルボーイ」が投下されました。
43秒後、爆弾は建物の東150m、上空約600mの地点で炸裂しました。
0・2秒後、建物は日光の照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3000度に達しました。
0・8秒後には全面に衝撃波を伴う秒速440m以上(音速よりも秒速100m速い)の爆風が襲い、350万パスカル(1平方メートルあたりの加重35トン)という爆風圧にさらされました。
1秒後には3階建ての建物本体部分はほぼ全壊しましたが、ドーム部分だけが奇跡的に残りました。
ドームが全壊しなかった理由として
1:衝撃波を受けたのがほぼ真上からであったこと。
2:窓が多かったために爆風が窓から抜けたこと。
3:ドーム部分だけは屋根の構成素材が銅製であったこと(銅は鉄に比べ融点が低く、爆風到達前に融解し、爆風が通りやすかった)。
等が挙げられています。
しかし、原爆投下の瞬間、建物内部にいた約30名の職員は全員、大量の放射線被曝、爆風により亡くなったと推定されています。
世界遺産登録への道
1992年に日本政府が世界遺産条約を受諾したことにより、同年9月、広島市議会が原爆ドームを国の世界遺産候補リストに登録するよう要望する」意見書を採択し、翌年1月、市長が要望書を文化庁へと提出しました。
それに伴い全国的な署名運動が始まり、1994年には165万人分の署名を添えた国会請願が、衆議院・参議院の両院で採択されました。
1992年当初、日本政府は周辺諸国やアメリカ合衆国との摩擦を避ける政治的配慮によって消極的でした。
ですが、結果としてこれが署名運動の盛り上がりへとつながり、上記のような多数の署名を集める結果となりました。
1995年、文化省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定した。これを受けて、日本国政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦しました。
審議はメキシコのメリダで行われ、上記のようにアメリカ合衆国の強く反対し、調査報告書から「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させました。
さらに中華人民共和国の審議棄権といったことがありつつも、審議の結果原爆ドームは文化遺産として登録されることになりました。
世界遺産登録
(vi)
顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。上記の基準を満たしているとして1996年ユネスコ世界遺産へと登録されました。
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