5:古都京都の文化財(京都市、宇治市、大津市)
天龍寺

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臨済宗天龍寺派の大本山で山号は霊亀山(れいぎざん)。
開基(創立者)は足利尊氏で開山(初代住職)は夢窓疎石、本尊は釈迦三尊。
正式には、霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と号します。
京都五山の第一位とされてきました。
鎌倉幕府を打倒した後醍醐天皇の建武の新政に反発して、足利尊氏が天皇に反旗を翻し後醍醐天皇と足利尊氏は対立しました。
後醍醐天皇が1339年に崩御されると当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧「夢窓疎石」が後醍醐天皇の菩提を弔う寺院を建立するように尊氏へ強く勧めました。
尊氏は北朝の治天である光厳上皇に奏請し、院宣を以て天龍寺を建立しました。
・鹿苑寺(金閣寺)


室町幕府の三代将軍 足利義満によって建立された、臨済宗相国寺派の寺院です。
建物の内外に金箔を貼られたその姿から【金閣寺】という呼び名が有名です。
応永6年(1399年)に金閣寺舎利殿が完成したと推定され、相国寺の七重大塔も同年完成しましたが、後に落雷によって焼失し
義満が当地に七重大塔(北山大塔)を再建しました。
足利義持の代には、その七重大塔(北山大塔)も落雷で焼失し、義持は当地ではなく
元の相国寺に七重大塔を再建させました。
その後も応仁の乱や昭和25年の金閣寺放火事件等で何度も焼失されましたが修復され、現在では創建当時の姿に復元されています。
慈照寺(銀閣寺)


室町幕府8代将軍 足利義政による建立。
鹿苑寺(金閣寺)を造営し、子の義持の後見をした3代将軍義満に倣い、義政も養子の足利義視の後見をする場所として山荘造営を計画しました。
当時は応仁の乱が終結したばかりで、京の経済は疲弊していましたが、各地の守護大名に費用の負担を命じ建設されました。
さらに庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して造営を進め、義政自身は着工の翌年にはここへ移り、絵画や茶の湯を楽しむ風流な隠栖生活を送っていたといいます。
金閣寺になぞらえて銀閣寺といわれるようになったのは江戸時代以降のことです。
「当時は銀箔が貼られていたが剥がれ落ちてしまった。」 「貼る予定であったが、義政が亡くなったので中止になった。」 「外壁の漆が日の光で銀色に輝いて見えた」等の説がありますが
化学的調査の結果、当時から銀箔は貼られていなかったことが判明しています。
龍安寺


有名な石庭で知られる龍安寺は、藤原北家の流れを汲む徳大寺実能の山荘を細川勝元(室町幕府の管領)が譲り受け、敷地内に龍安寺を建立しました。
応仁の乱の際、勝元は東軍の総大将であったため、龍安寺は真っ先に西軍の攻撃を受け応仁2年(1468年)に焼失しました。
長享2年(1488年)、勝元の子・細川政元と四代住職・特芳禅傑によって再興されました。このため龍安寺では特芳禅傑を中興開山と称しています。
有名な石庭は、室町時代末期(1500年頃)に作庭されたと伝えられていますが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではありません。
本願寺(西本願寺)


親鸞を宗祖とする浄土真宗の寺院。
戦国時代末期には、民衆が支配者に対して展開した解放運動のささえとなり、社会変革の思想的原動力として著しく教勢を伸ばし
一個の強力な社会的勢力として、戦国大名のように石山にあった石山本願寺を要塞化し、織田信長に激しく抵抗していましたが、天正8年に信長に降伏し、石山本願寺を明け渡しました。
豊臣秀吉が石山本願寺の跡地に大阪城を築城し、本願寺は大阪の天満へと移転します。
その後、京都へと移転し、秀吉死後の関ヶ原の戦いに際し本願寺が西軍についたことから、徳川家康の謀臣・本多正信の意見で本願寺は2つに分裂し、以降「西本願寺」と「東本願寺に」に分裂しました。
二条城

江戸幕府・徳川将軍家の城。平地に造られたいわゆる平城であり、近代においては皇室の離宮の役割を担いました。
正式名称は「元離宮二条城」
京都の平城としては、足利氏、織田氏、豊臣氏の二条城がありましたが、現存する二条城は徳川家のものだけです。
京都御所の裏鬼門に位置し、京都御所、供花町、洛中の守護、及び将軍上洛時の居城として造営されました。
徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、幕末の徳川慶喜による大政奉還の上奏 等、徳川幕府の始まりと終わり等、日本の歴史を見届けてきた歴史的に重要な場所です。
世界遺産登録
以上17の資産で構成される古都京都の文化財は
(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。
(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。
上記の基準を満たしているとして1994年にユネスコ世界遺産へ登録されました。
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