3:屋久島

屋久島は、鹿児島県の大隅半島佐多岬の南南西約60kmの海上に位置する島です。
面積504.29km2 周囲130kmで日本第9位の面積の島です。
豊かで美しい自然が残されていて、島の90%が森林です。
スタジオジブリの長編アニメーション映画「もののけ姫」の舞台となる美しい苔に覆われた森のモデルとして有名です。
屋久杉の森など、島の約21%が法隆寺、姫路城、白神山地と共に日本の第一陣としてユネスコ世界遺産に登録されています。
屋久杉
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屋久島に産し、樹齢1000年を超えるものをヤクスギと呼んでいます。
屋久島の強風、多雨、地質、鹿の生息といった自然環境に対応して抗菌性を持つ樹脂を多量に分泌し、極めて長寿です。
幼樹の葉がするどい等、特徴的な形質を有しています。
このような抗菌性が強く耐久性もあることで、中世以降、建築材、造船材として利用されました。
豊臣秀吉の方広寺大仏殿建立の際に、大阪まで屋久杉が運ばれた形跡が確認されています。
17世紀には薩摩藩による伐採が本格化し、明治までには良木のほとんどが伐採されました。
ですが、樹齢1000年程度の巨木は年輪が歪み、山地での製材が不可能であったために現在まで残り
伐採跡地には杉の稚樹が成長し、以来300~400年を経て美しい二次林になっています。
縄文杉と大王杉
画像・縄文杉


画像・大王杉


屋久島最大の【縄文杉】は、かつてその巨大さから推定樹齢6000年以上であるとされ
環境省(当時は環境庁)の環境週間ポスターに「7200歳です」と紹介されたことで、全国的に有名になりました。
現在は放射性炭素年代測定法によって推定樹齢2000年以上であることが確認されています。
現在までに確認された最古の木は【大王杉】であり、同じく放射性炭素年代測定法によって、推定樹齢3000年以上とされています。
その他にも、翁杉、紀元杉、三代杉、夫婦杉、ウィルソン株といったヤクスギが有名です。
歴史
画像・苔の森

屋久島が初めて文献に登場するのは、中国の歴史書『隋書』大業3年(607年)、煬帝(隋の2代皇帝)の代に、「夷邪久国」の記述が見えるのが最初で、
この「夷邪久」は屋久島を指す説と、南島全般(すなわち種子島・屋久島より南方)を指す説とがあります。
『日本書紀』では、推古天皇24年(616年)に掖久・夜勾・掖玖の人30人がやってきて、日本に永住したという記事が見られます。
舒明天皇元年(629年)には大和朝廷から掖玖に使が派遣されたという記載があります。
『日本書紀』で、掖玖(ヤク)を、特定の島である屋久島を指すような言葉として初めて区別するような記載が行われたのは、天武天皇11年(682年)に「多禰人・掖玖人・阿麻彌人(奄美人)それぞれ禄を賜った」という記載からです。
『続日本紀』には文武3年(692年)に多褹・掖玖・菴美・度感から朝廷に来貢があり位階を授けたと記載がある。また同書には、種子島とともに多禰国との記述があり
大宝2年(702年)8月1日条に「薩摩と多褹が化を隔てて命に逆らう。是に於いて兵を発して征討し、戸を校して吏を置けり」とあり、薩摩国と多禰国が成立します。
これ以後、大和朝廷は令制国として一国に準じる多禰国に国司を派遣しました。
屋久島からの税収は微々たるものでしたが、南西諸島との交流や、隼人(阿多・大隅の古代人)の平定、遣唐使の派遣などのために格は中国(律令制における国力の等級区分で大国、上国に次ぐ3番目の等級)として扱われました。
実例として鑑真、大伴古麻呂、吉備真備らを乗せた遣唐使船が帰国した際に到着したのは屋久島であり、鑑真が最初に踏んだ日本の地は屋久島でした。
さらに753年にも遣唐使船が屋久島へ「帰国」しています。
鎌倉時代になると鎌倉幕府より種子島氏に南西諸島が与えられました。
1595年に豊臣政権の太閤検地によって南西諸島は島津氏の直轄領となり、前述した大仏殿建立の用材として屋久杉が大阪へと運ばれました。
一説には、ウィルソン株はこの時切り出された屋久杉の切り株であると言われています。
江戸時代も引き続き薩摩藩の領地として管理され、明治に入り国有地化されました。
対象11年(1922年)からは本格的にインフラが整備されました。
世界遺産登録
(vii)最上級の自然現象、又は、類まれな自然美・美的価値を有する地域を包含する。
(ix)陸上・淡水域・沿岸・海洋の生態系や動植物群集の進化、発展において、重要な進行中の生態学的過程又は生物学的過程を代表する顕著な見本である。
上記の基準を満たしているとして1993年に、法隆寺、姫路城、白神山地とともに、日本第一陣としてユネスコ世界遺産へ登録されました。
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