2:姫路城

姫路城連立天守群(国宝)

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姫路城は兵庫県姫路市にある、日本の城です。

江戸時代初期に立てられた天守や櫓といった主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されています。

また、主郭部(本丸・内曲輪のこと)を含む中堀の内側は国の特別史跡に指定されています。

日本の100名城にも指定されており、その見た目から白鷺城(はくろじょう、しらさぎじょう)とも呼ばれています。

歴史

姫路城の始まりは、南北朝時代の1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、赤松貞範による築城とする説とはが有力で、姫路市や『姫路城史』ではこの説を採っています。

もっとも、赤松氏時代のものは、城とはいうものの砦や館といった小規模なものであり、

城郭と呼ぶに相応しい規模になるのは、戦国時代後期に西播磨地方に勢力を張っていた小寺氏の家臣、黒田重隆、職隆 父子による築城を最初とする説もあります。

戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道の交通の要所にある姫路城は本格的な城郭へと拡張され

関ヶ原の戦いの後に姫路城主となった池田輝政によって、今日見られる大規模な城郭へと更に拡張されました。

関ヶ原の戦いで、石田三成に味方をしたものの、戦後に降伏した毛利氏や島津氏といった、徳川幕府にとっての潜在的な脅威を持つ雄藩は主に西国に集中しており

それらの藩を監視、牽制するために姫路城に西国探題が設置され、

その役割上、城主が無能、幼少、病弱では任務に堪えないため、姫路城主は頻繁に代わっています。

池田氏を始めに、譜代(先祖代々の臣)である本多氏、榊原氏、酒井氏、親藩(徳川一門・親戚)の松平氏が、270年に渡って配属され、歴代の城主は6氏31名にのぼります。

画像:連立天守群の中心

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画像:太鼓櫓と石垣

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播磨52万石に封じられた池田輝政の後、第二代藩主の跡を継いだ池田光政が、

幼少により姫路の要衝を任せるには不安があるとの理由で転封となり、1617年に本多忠政が石高15万石で姫路城主になりました。

1618年に西の丸が整備され、全容がほぼ完成しました。

その後は前述したように様々に藩主が交代しましたが、石高15万石の姫路藩にとっては居城姫路城は非常な重荷でした。

幕末になると、城主酒井忠惇が老中であり、徳川慶喜と行動を共にしたこともあり、姫路藩は朝敵とされます。

姫路城は官軍である岡山藩、龍野藩を主体とする新政府軍1500人に包囲され、攻撃は不可避と思われる程緊張が高まりましたが

摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が15万両に及ぶ私財を新政府群に献上し、攻撃を食い止めました。

これによって姫路城は破壊されることなく幕末の動乱期を乗り越えました。

明治・大正期、姫路城は交通の要衝ということもあって軍隊の駐屯基地として利用されました。

昭和になると、姫路城は史跡に指定され文部省に管理されました。

太平洋戦争中は、その美しい白壁がアメリカ軍の爆撃の対象になることが明らかであるため

黒く染めた綱で城の主要な部分を覆い隠しました。

1945年の姫路空襲の際に、城内にも数発着弾しましたが、何れも不発あるいはすぐに鎮火され、城郭の焼失は免れました。

かつては、姫路城は重要な文化財であるため爆撃対象から外されたのだと言われたこともありましたが

B-2の機長であったアーサー・トームズは戦後50年に来日した際に

「私は城があることすら知らなかった。上官から城について何の指示もなかった。レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と語っています。

夜間だったこと、上空からは姫路城とは視認されず、レーダーには外堀の水が映ったことから姫路城一帯を沼地だと思い、沼地を攻撃しても意味がないと判断したため爆撃しなかったと回顧しています。

昭和の大修理

画像:羽柴秀吉時代の礎石

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旧・西心柱(西大柱)

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1956年の昭和の大修理の際には、解体修理によって柱や桁などの構造物に書き込まれていた様々な墨書や文書、備前丸の御殿跡などの発見があり姫路城の研究に大きく役立てられました。

基礎部分は工事前の調査によって南東に44cm地盤沈下していることが判明し、

元々使われていた築城当時の礎石では天守の重みを支えられないため、礎石は撤去され新たに強固な基礎が築かれました。

この時発見された、秀吉時代の礎石や石垣は三の丸に移設し展示されています。

天守を解体した際には、天守を支えていた柱の芯が腐敗しており再利用できないことが判明しました。

ただちに代わりの巨木が探し出されましたが、最初の木は切り出しの最中に途中で折れ

2本目は運搬中にあまりの長さ故に折れてしまいました。

窮余の策として1本目と2本目の折れた上下を継ぎ合わせて使用することとしました。

実は、元々の大柱も二本継ぎでできており、修理開始前の段階ではその理由は不明でしたが

修理を開始してはじめて、構造上2分割しないと不可能であったことが判明したのでした。

元の西大柱は現在でも展示されています。

平成の大修理

2009年6月27日から2015年3月18日にかけて、昭和の大修理から45年が経過した時点で、漆喰や木材の劣化が進んでいたこともあり

白漆喰の塗り替え、畳の葺き替え、耐震補強を重点とした補修工事が行われました。

世界遺産登録

(i)人間の創造的才能を表す傑作である。

(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。

上記の基準を満たしているとして1993年にユネスコ世界遺産へ登録されました。


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