1:法隆寺地域の仏教建造物

法隆寺地域の仏教建造物 とは、奈良県生駒郡斑鳩町にある、法隆寺、および法起寺によって構成され

姫路城と共に日本初のユネスコ世界遺産に1993年に登録されました。

法隆寺

画像は金堂(左)と五重塔(右)

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 4.0 国際 著作権帰属:Nekosuki

法隆寺は7世紀に創建された、聖徳宗の総本山の寺院であり、創建当時は斑鳩寺と称していました。

古代寺院の姿を現在に伝える聖徳太子ゆかりの寺院です。

創建は金堂「東の間」に安置される薬師如来座像の光背銘

「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」

から推古15年とされていますが

・像自体の様式や鋳造技法の面から、実際の製作は7世紀後半に下るとみられる

・607年当時、日本における薬師如来信仰の存在が疑問視される。

・銘文中の用語に疑問が持たれる。

という疑問が出され、この説は概ね支持されており、薬師如来座像の製造は607年とは見なされていません。

金堂に安置されている本尊は「623年に、聖徳太子の冥福を祈るために止利が造た」という内容の光背銘を持つ釈迦三尊像であり

この本尊よりも古くに製作された(とするならば)薬師如来座像が東の間で脇仏のように安置されている点も不審です。

銅造薬師如来座像(金堂東の間)

日本・アメリカにおいてパブリックドメイン

西院回廊と大議堂

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権帰属:663highland

五重塔

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権帰属:663highland

南大門を入り正面のやや小高くなったあたり

右に金堂、左に五重塔を配し、これらを凸字形に回廊が囲む一帯を西院伽藍と呼びます。

西院伽藍は世界最古の木造建造物群として有名です。

西院伽藍のうち、金堂、五重塔、中門、廻廊は残念ながら聖徳太子在世時のものではなく

7世紀後半に再建されたものですが、それでも尚、世界最古の木造建造物群であることは間違いありません。

聖霊院

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権帰属:663highland

西院伽藍の東側に建つ聖霊院は、聖徳太子を祀る堂です。

保安2年(1121年)鎌倉時代に建立されました。

現在の姿は弘安7年(1284年)に改築されたものです。

聖徳太子及び眷属像(平安時代、国宝)や如意輪観音半跏像(重要文化財)、地蔵菩薩立像(重要文化財)が安置されており

太子の命日の旧暦2月22日(現在の3月22日 – 24日)を中心に、法隆寺最大の行事であるお会式(おえしき)が、またその前夜には逮夜法要が行われます

法起寺

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権帰属:663highland

奈良県生駒郡斑鳩町にある聖徳宗の寺院です。

聖徳太子建立七大寺のひとつに数えられる

こともありますが

実際の建立は聖徳太子が没して数十年後です。

世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物群」の一部としてユネスコ世界遺産に登録されています。

仏教文化の栄え

斑鳩の里は法隆寺を始め、法起寺、法輪寺、中宮寺など、創建年代が7世紀にまで遡る古代寺院がいくつも存在し、

この地が早くから仏教文化の栄えた地であることを示しています。

法起寺は法隆寺東院の北東方の山裾の岡本地区に位置し、聖徳太子が法華教を講じた岡本宮の跡地と言われ

太子の遺言によって、子息の山背大兄王(やましろのおおえのおう)が岡本宮を寺に改めたのが法起寺の始まりと伝えられています。

三重塔(国宝)

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権帰属:663highland

創建当時の建築で現存するものは三重塔のみですが、1960年以降実施された発掘調査によって

金堂跡、講堂跡などが検出され創建当時の伽藍配置が判明しました。

創建当時の伽藍は金堂と塔が東西左右に並び、法隆寺西院の伽藍配置と似ていますが

法隆寺とは金堂と塔が東西逆の配置になっており、このような形式を「法起寺式伽藍配置」と称しています。

国宝である三重塔は、三重塔としては日本最古であり

特異な形状である薬師寺東塔を除けば日本最大の三重塔です。

奈良時代にはかなり栄えた法起寺でしたが、平安時代に入ると衰微し法隆寺の傘下に入ってしまいます。

鎌倉時代には三重塔や講堂が修理されますが、室町時代にはまたも衰微し始め

江戸時代には三重塔を残すのみとなってしまいます。

明治維新によって所属する宗派が真言宗となりましたが、法隆寺や興福寺と共に法相宗として独立し法相宗の小本山となりました。

1950年(昭和25年)に法隆寺が独立して聖徳宗を設立すると法起寺も聖徳宗に宗旨を改めました。

世界遺産登録

(i)人間の創造的才能を表す傑作である。

(ii)建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。

(iv)歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、あるいは景観を代表する顕著な見本である。

(vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。

上記の基準を満たしているとして

1993年に姫路城と共に国内初のユネスコ世界遺産へ登録されました。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です