17:人権、解放と和解 : ネルソン・マンデラの遺産群

ネルソン・マンデラ像 画像引用元:wikipedia commons 著作権帰属:BKP クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植

ネルソン・マンデラの遺産群とは南アフリカ国内の14の遺産群によって構成される

反アパルトヘイトの伝説的指導者である、ネルソン・マンデラの永きに渡る差別との戦いと

ネルソン・マンデラの影響を受けた、人権、解放、和解を示す世界遺産です。

ユニオンビル

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権帰属:Davinci77

南アフリカの大統領官邸

ウォルター・シスル広場

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 4.0 国際,表示-継承 3.0 非移植,表示-継承 2.5 一般,表示-継承 2.0 一般,表示-継承 1.0 一般 著作権帰属:Bernard Gagnon

1955年6月26日に人民会議が開かれ

アパルトヘイトという国家による抑圧に代わる自由憲章が作成された場所です。

自由憲章は1996年に制定された南アフリカ憲法の基礎であるとされています。

シャープビル虐殺事件 犠牲者の墓

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 4.0 国際 著作権帰属:Andrew Hall

1960年3月21日、ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで発生した虐殺事件。

1952年に南アフリカで成立したパス法(18歳以上の黒人男女に身分証の携帯を義務づける法律)に抗議した人々が

警察によって銃撃され69人が虐殺され、180人以上の負傷者が出ました。

シャープビル虐殺事件に関しては

事件現場の警察署、記念公園、墓地A、墓地Bの4つが構成リストに入っています。

リリーズリーフファーム

パブリック・ドメイン 著作権帰属:Colinvlr

ヨハネスブルグ北部に位置し、1960年代のアパルトヘイト解放運動団体アフリカ民族会議の活動家たちの隠れ家として使用されました。

憲法の丘-永遠の炎

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植 著作権帰属:ConstHill

憲法裁判所、オールド フォート刑務所、博物館で構成される複合施設があります。

元々は白人用の刑務所があった場所であり

アパルトヘイト時代には、反アパルトヘイトの反体制派を収容する施設として使用され

ネルソン・マンデラが投獄されていたこともあります。

現在の憲法裁判所の広場には民主主義の炎が灯され燃え続けています。

その他、構成遺産群

1976年6月16日 – オーランド・ウェストの街路

1976年6月16日。黒人学生たちは、学校でアフリカーンス語を学ばなければならないことに抗議して、ソウェトのオーランド西地区で抗議行動を起こしました。

(アフリカーンス語とは、低地ドイツ語に属し、オランダ語から派生した言語であり

南アフリカの白人たち(アフリカーナー)の使用する言語で、黒人たちにとっては英語よりもさらに抑圧者の言語)

警察は抗議者を銃撃し、176 名が死亡、1,000 名以上の学生が負傷しました。

オランジュ高等学校

ジョン・デュベによって、南アフリカ初の黒人学校として設立されました。

ジョン・デュベは後に アフリカ民族会議の初代リーダーとなり、校庭に埋葬されています。

ネルソン・マンデラは 1994 年の総選挙でここで投票しました。これは南アフリカ国民全員が投票できる初めての選挙でした。

フォートヘア大学

アパルトヘイト以前、南アフリカでは黒人が高等教育を受けることができました。

フォートヘアは黒人のための大学でした。

ネルソン・マンデラも、1939年から1940年にかけて1年間ここで学んでいましたが、

食品の品質に対するボイコットに参加したため追放されました。

フォートヘア大学に関しては

ZKマシューズハウス(社会人類学と先住民法・行政の講師、ザカリア・ケオディレラン・マシューズの家。)も遺産の構成リストに登録されています。

・ワイホーク・ウェスリアン教会

この教会でアフリカ民族会議が誕生しました。

この組織は反アパルトヘイト、黒人の権利促進のための組織として始まり、後に政党へと発展しました。

・ムケズウェニのグレートプレイス

ネルソン・マンデラが少年時代をすごした場所です。「伝統的なリーダーシップを象徴する場所」とされています。

世界遺産登録

(vi)顕著な普遍的価値を有する出来事(行事)、生きた伝統、思想、信仰、芸術的作品、あるいは文学的作品と直接または実質的関連がある(この基準は他の基準とあわせて用いられることが望ましい)。

上記の基準を満たしたと判断されたため

2024年にユネスコ世界遺産へと登録されました。


Comments

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です