2024年に新規登録された世界遺産⑬

13:ウンム・アル・ジマル

画像引用元:wikimapia クリエイティブ・コモンズ 表示 – 継承 3.0 非移植 著作者:JSteffen

ウンム・アル・ジマル(ラクダの母)は、ヨルダンのマフラク県の州都マフラクの東、約17kmにあるヨルダン北部の村です。

この村は、ビサンチンと初期イスラムの大きな町の遺跡、更にビサンチン遺跡の南西に位置する古いローマの村(アル・ヘリ)で有名です。

ウンム・アル・ジマルの歴史

画像引用元:wikimapia クリエイティブ・コモンズ 表示 – 継承 3.0 非移植 著作者:JSteffen

ウンム・アル・ジマルの歴史は紀元1世紀に遡ります。

古代ナバテア人の首都ボストラ郊外の田園地帯として始まりました。

この地で発見された碑文の数々は、この年代の村のことを示しています。

最初期のこの地の人口は2000人~3000人と推定されています。

106年になるとローマ皇帝トラヤヌスによって一帯の土地がローマに組み入れられ、村はローマ人のものとなりました。

そして、ローマ人の手によって大きな貯水池や、多くの建物が建てられました。

275年、パルミラ帝国(シリア)の女王ゼノビアの反乱に対して対抗するため

軍の駐屯するための砦がローマ人によって造られます。

画像「兵舎の上から見るウンム・アル・ジマル」

画像引用元:wikipedia commons クリエイティブ・コモンズ 表示 – 継承 3.0 非移植 著者:M1st91

この地におけるローマ人の影響力が弱まると、ウンム・アル・ジマルは田舎の村へと戻りました。

しかし、5世紀~6世紀にかけてウンム・アル・ジマルは農業と貿易の村として急激に繁栄し、人口も4000~6000人へと急増しました。

しかし、7世紀にイスラム教徒に征服されると、建設プロジェクトや改修が繰り返されたにもかかわらず、人口は減り続けました。

749年頃、地震によってこの周辺の建物の大部分が壊され、ウンム・アル・ジマルは放棄されました。

その後は、20世紀に現在のコミュニティが形成されるまで、およそ1100年に渡って、無人の村でした。

先史時代

先史時代については、遊牧狩猟採集民の集落があったと思われる遺跡が点在しています。

ナバテア人

彼等はこの地に最初に定住地を造ったとされています。

碑文が数多く残っており、その多くは墓石です。少なくとも首都ボストラの市議会議員を務めた人物が2名はいたことが分かっています。

初期ローマ

ローマ人が周辺地域を征服するにつれ、ナバテア王は、自国の滅亡は避けられないとして国をトラヤヌス皇帝へ譲りました。ローマは地方政府を設立しました。

後期ローマ

女王ゼノビアの反乱により、全てが変わりました。

もはや自治は許されず、厳しい支配に従わざるを得ませんでした。

ローマ帝国の力が衰え始め、影響力が無くなると周辺地帯は衰退しましたが、地元アラビア住民には解放と映ったに違いありません。

ビサンチン

ビサンチン帝国の元、この地は最盛期を迎えます。農業と貿易によって栄え、人口は6000人に達しました。

住民たちはキリスト教へ改宗する者が増えました。現在も残る150件の家の遺跡はこの時代の物です。また、教会も次々に建てられ、現在でも15軒が残っています。

ペラギウス公によって建設された軍の宿舎は現在でも兵舎として利用されています。

ウマイヤ朝

ウンム・アル・ジマルのイスラム支配は640年に始まりました。

イスラムの支配者たちは、彼等が使いやすいように町を改修してゆきました。

その結果、人口は減り続け、改修でバランスが崩れた建物は地震によって大部分が崩れ、町は廃墟となりました。

ローマ神殿
画像引用元:wikipedia commons 著作者:M1st91 クリエイティブ・コモンズ 表示 – 継承 3.0 非移植

ビサンチン時代のキリスト教会
画像引用元:wikipedia commons 著作者:M1st91 クリエイティブ・コモンズ 表示 – 継承 3.0 非移植

世界遺産登録

(iii)現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。

上記の基準を満たし

2024年にユネスコ世界遺産に登録されました。


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